大阪地方裁判所 昭和60年(ワ)1507号 判決 1985年8月30日
原告
丸山蓉子
被告
近畿日本鉄道株式会社
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、六八四万円及びこれに対する昭和六〇年三月一二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 事故の発生
左記のとおりの事故(以下、本件事故という)が発生した。
(一) 日時 昭和五六年九月二九日午後零時二〇分頃
(二) 場所 大阪府富田林市綿織一五九番地の一先、近鉄長野線滝谷不動第二号踏切道(以下本件踏切という)
(三) 加害車 被告の河内長野発大阪阿倍野橋行準急第一二一二号列車
右運転者 訴外山崎昇克
(四) 被害者 訴外丸谷正一(明治三七年二月八日生、以下正一という)
(五) 態様 正一が自転車に乗つて本件踏切を横断中、右加害列車にはねられ死亡した。
2 責任原因
本件踏切は、保安設備と併せ一体として土地の工作物に該当する軌道施設であり、被告は、これを管理・占有するものであるが、右踏切には、遮断機及び警報機が設置されておらず、また、踏切の枕木も腐つていて窪みになつているなど、踏切道における軌道施設として通常備えるべき安全性または相当な設備を欠いているため、右工作物の設置には瑕疵があるものというべきところ、そのために正一は、本件踏切を渡るに際して加害列車の接近に気づかず、また、腐つた枕木の窪みに乗つていた自転車のタイヤをはめ込んで前進することを妨げられ、その結果、本件事故に遭遇するにいたつたものである。したがつて、被告は、民法七一七条に基づき本件事故によつて生じた後記損害を賠償すべき義務がある。
3 損害 八〇四万円
(一) 財産的損害 六〇四万円
選定者丸谷ミサエ(以下、ミサエという)は正一の妻、原告はその長女であり、いずれも同居して生活していたものであるところ、正一は、本件事故当時近所の家具製造工場に勤務して相当の収入を得るかたわら、自分の畑で農業を営んで家計を支え、また、障害者であるミサエの身のまわりの世話もする等原告ら一家の大黒柱として原告らを扶養していた。正一の死亡により、原告らは、以上のような扶養されるべき利益を喪失したが、これらの損害は、少なくとも六〇四万円を下らない。
(二) 精神的損害 一〇〇万円
本件事故により、夫を失つたミサエの精神的苦痛を慰藉するには、一〇〇万円が相当である。
(三) 墓石その他の費用 一〇〇万円
本件事故により原告及びミサエは、墓石その他の費用として計一〇〇万円の支払を余儀なくされ、同額の損害を被つた。
4 損害の填補
原告及びミサエは、本件損害の一部の賠償として被告から一二〇万円の支払を受けた。
よつて、原告は、被告に対し、右3から4を控除した残額である六八四万円及びこれに対する履行期の経過した後である昭和六〇年三月一二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実のうち、被告が本件踏切を管理・占有するものであること、右踏切には遮断機及び警報機が設置されていなかつたことを認め、その余の事実を否認する。
本件踏切は、古市から河内長野にいたる被告の長野線にあり、一般列車の運行は、一時間に上下約八本であつて、比較的閑散な状態にある。正一は南東の方向から本件踏切に接近してきたものであるが、その手前五メートルの地点からは、加害列車の進行して来る軌道上の様子を約九〇メートル先まで見通すことができ、かつ、この付近での列車の速度は時速約六〇キロメートルであるから、右列車が目に入つてから本件踏切にいたるまでには約六秒の余裕があるはずである。また、本件踏切南東側手前には、縦約二・五メートル、幅約〇・六メートルの「死亡事故発生踏切一時停止せよ」と書かれた立看板があり、更に、直径約〇・六メートルの丸型の「止まれ」と書かれた立看板も設置されている。のみならず、本件踏切から、本件加害列車が接近して来た方向(西南)約二三メートルの地点に国道一七〇号線と平面交差する滝谷不動第三号踏切道があり、同所には遮断機及び警報機が設置されているところから、その警報機の吹鳴音が本件踏切通行者にも聞こえてくる状況にあつた。したがつて、本件踏切は、遮断機及び警報機を設置しなければ本来の機能を全うしえないような状況にあつたとはいえず、それ故にまた、遮断機及び警報機の設備を欠いた本件踏切の設置には瑕疵があつたということはできない。
本件事故発生の直前、加害列車の運転手は、本件踏切の手前約一六六メートルの地点で警戒気笛を吹鳴し、さらに正一の姿を発見してからは短笛を吹鳴し続けたものであるが、それにもかかわらず、正一は無謀にもあえて自転車に乗つたまま本件踏切を通過しようとしたため本件事故に遭うにいたつたものであつて、右事故は、正一が自ら招来した自殺的行為というべきである。
3 請求原因3の事実は知らない。
4 同4の事実のうち、被告が原告及びミサエに一二〇万円を支払つたことは認める。
三 抗弁
被告と原告及びミサエとは、昭和五七年三月二二日、本件事故について示談契約を締結し、被告は原告及びミサエに対し、弔慰金として一〇〇万円、供物料として二〇万円合計一二〇万円を支払い、原告及びミサエは、本件事故に関して被告に対し、右金員の支払以外に何等の請求もしないことを合意するとともに、被告はただちに原告及びミサエに対し右一二〇万円を支払つた。
四 抗弁に対する認否
認める。
五 再抗弁
1 本件踏切に遮断機の設置があれば本件事故が発生しなかつたことは明らかであるが、原告及びミサエは、付近住民から被告に対し、かねてより遮断機設置の要望が出されていた旨仄聞していたところから、被告がその要望を無視して放置した結果本件事故を発生させたのであれば被告の責任は重大であると考えており、この点は示談交渉の成否を決める重要な事項であると理解していた。
そこで、原告及びミサエは、本件示談契約に至るまでの交渉において、被告側に対し、そのような要望が出されていた事実があるかどうかについて確かめた。ところが、実際には本件踏切の付近住民が本件事故以前から被告に対し、遮断機設置の要請をしていたのにもかかわらず、被告側の担当者は、そのことを知りながら右のような要請を受けたことはない旨確言したので、原告及びミサエもその言を信ずるよりほかなく、そうであれば右示談に応ずるもやむなしと考えて、本件示談契約を締結するにいたつたものである。
2 そうすると、本件示談契約は、表示された動機において錯誤があり、要素に錯誤のある意思表示であるから、その点において無効というべきである。
3 さらに、右契約は詐欺によるものでもあるというべきところ、原告は被告に対し、昭和六〇年四月一八日の本件第一回口頭弁論期日において、右契約を取り消す旨の意思表示をした。
六 再抗弁に対する認否
再抗弁はいずれも否認する。
第三証拠
本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一 本件請求原因事実については、当事者間に一部争いのあるところも存在するけれども、抗弁事実(示談契約の成立)については当事者間に争いがなく、ただその効力についてのみ争いがあり、かつ、その効力は再抗弁の成否によつて決せられることとなるので、まずこの点から判断することとする。
二1 原告本人尋問の結果中に、本件示談交渉の際、原告から被告側担当者である和田正昭外二名の者に対し、以前原告の村の人が本件踏切に遮断機を設置するよう近鉄に要請したのに、これを設置しなかつたため本件事故が発生したと非難したところ、右和田らは、そのような要請を受けたことは絶対にない旨返答したとの供述部分が存在するけれども、その裏付となるような資料はなんら存在せず、しかも、証人和田正昭は、極力これを否定し、原告からそのような申出を受けたことは全くない旨供述しているのであつて、いずれもその決め手を欠き、いわば水掛論に終つているのである。
2 のみならず、成立に争いのない乙第一、第二号証、証人和田正昭の証言及び原告本人尋問の結果を総合すると、本件示談契約成立にいたる経緯として、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。
(一) 原告及びミサエと被告とは、昭和五七年一月頃から同年三月二二日までの間、前後約六回にわたつて話し合いの機会をもつて交渉したが、第二回目の交渉からは、原告側の親戚(原告蓉子の従兄)に当たる松川啓一郎が、原告らの後見役、補佐役の資格でこの交渉に加わつた。
(二) 示談交渉の当初、被告側は、本件事故は、正一が付近の踏切の警報機が鳴つているにもかかわらず、左右の安全も確認せず踏切を渡ろうとしたために発生したものであるとの理由で、一切金員の支払はできないと対応し、原告が本件踏切に遮断機があつたならば本件事故は起こらなかつたし正一も死亡することはなかつたと主張した際にも、被告側の交渉担当者である和田正昭は右のように正一が安全確認もせずに踏切を渡つたことが事故原因であると応酬していた。
(三) そのようにして原・被告間で協議が重ねられた結果、結局、原告らの強い要望と被告の顧問弁護士の助言あつて、被告としては、賠償金としてではなく、弔慰金として一〇〇万円、供物料として二〇万円計一二〇万円ならば支払つてもよいという気になり、その代り、原告及びミサエには、これ以上一切の請求をしない旨を約させて示談をまとめることとなり、かくして本件示談契約が成立するにいたつた。
しかして、右認定のような示談契約成立の経緯からすると、原告及びミサエにおいて、本件事故以前に原告の村人から被告に対して本件踏切に遮断機を設置してもらいたいとの要請がなされたような事実はないと思つたからこそ、本件示談契約を締結するにいたつたものとみることはきわめて不自然であつて、右の点が本件示談契約締結の動機であつたとはとうてい認めることができないのである。
3 そうすると、その他の点について判断するまでもなく、原告の主張する錯誤・詐欺の主張はその前提を欠くというほかはなく、原告主張の再抗弁は認めることができない。
三 以上によれば、本件示談契約は有効に成立したものというべく、その点から原告の本訴請求は理由がないというべきであるからこれを棄却し、訴訟費用につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 藤原弘道 加藤新太郎 浜秀樹)
選定者目録
大阪府富田林市大字綿織八八四番地 丸谷ミサエ